江戸時代後期、姫路城の歴代城主であった酒井氏は教養人で、茶の湯を好んだことから、姫路では城下の文化も大いに発展しました。酒井忠以の代で藩の財政が傾き、財政再建に着手したのが家老の河合寸翁でした。寸翁は藩政改革とともに各地の物産を姫路城下に集め、物流を盛んにしました。また、寸翁自身も茶をたしなんだことから、産業を盛り立てるため和菓子作りを推奨。江戸や京都、長崎まで職人を派遣し、製造技術を習得させました。
和菓子は、茶の湯の広がりとともに播州地方一帯に広がり、城下に集まった小麦粉、菜種油、砂糖などの良質な原材料をもとに作られた、かりんとうに代表される油菓子は“播州駄菓子として全国にその名を馳せました。
関東のかりんとうは、奈良時代に遣唐使が持ち帰った“唐菓子が起源とされるのに対し、関西のかりんとうは、安土桃山時代に箔南蛮菓子として長崎に伝えられたものが、西日本の庶民に広がったとされています(諸説あります)。
姫路を中心に代々作られてきた播州かりんとうの起源は、江戸時代、姫路藩の家老であった河合寸翁の命を受け、当時の長崎に派遣された菓子職人がオランダ商館で製法を学んだものが広まりました。食べごたえのある食感を出すため、うどんのようにしっかりとこねた硬めの生地を縄状にねじったり板状に延ばしてじっくりと油で揚げて作るのが特徴で、蜜は揚げ上がりの生地にさっとかける程度なので甘さも控えめ。保存食や土産物として親しまれ、姫路紀要によると、大正から昭和初期にかけて、姫路船場別院本徳寺の門前には30数軒もの菓子工場が軒を並べ、周辺には何とも言えない甘い匂いがしていたとされています。
※「成形」と「切る」が逆転することもあります
播州駄菓子は昭和初期まで姫路市内の船場本徳寺の門前に駄菓子屋が軒を連ねていましたが、第二次世界大戦の戦火で多くが焼失。その生産は下火になってしまいましたが、その技術と文化を守ろうとしてきた生産元によって受け継がれてきました。
常盤堂は1936(昭和11)年に米菓業を出発点に戦中戦後の苦難を乗り越え、播磨の銘菓「播州かりんとう」の老舗として伝統の味を守り続けています。